シルクロードの旅―6 9月4日(火)クフナ・ウルゲンチ AM6:00、起床。 AM6:50、朝食。前二日と同様、食卓に豊富な果物が並んでいる。しかし、スモモは、人数分の4個置いてあるが、大きめの桃は1個しか置かれていない。私もそれを食べたいが、独り占めにするには気が引けるし、4人で分けるには物足りない大きさである。 どうしたらいいのかなと迷っていると、スザンナが何の迷いも無いかのように、それを掴んで自分の皿の上に置いた。「さあ、これからどうする」と、息を殺して見ていると、皮を剥く前に、それを見事に4等分した。 4人に分けるつもりかな、と思いながら次の行動を見守っていると、4分の1の皮を剥き始めた。そして、当たり前のように、無造作にそれを、自分の口に放り込んだ。次の4分の1も、その次の4分の1も、最後の4分の1も、あっという間の出来事であった。 残った種と皮は、自分の皿から別の皿に移し、何事もなかったかのような涼しい顔をしている。今朝の朝食の最大の楽しみが無くなってしまった私は、心の平静を保つことが難しかった。この集団の中で、遠慮とか躊躇は、最悪の結果をもたらすだけであることを、改めて教えられた。 AM7:40、出発を前に、ホテルの受付で、残っているウズベキスタン・ソムをドルに替えてもらった。50,000ソム=6ドル。大した額ではないが、1000ソム札で持っているから、50枚である。これが無くなるだけで、余計な荷物が減る感じがする。 1泊2日で、アラル海見学のツアーに1人で行ってきたセブギに、感想を聞いた。「凄く良かったです。アラル海は元々の岸辺が、200kmも沖の方に移動してしまって、そこまでは、塩と砂浜に変わってしまいました」と言う。 気候の地球的規模での変動が、このアラル海の干上がりに如実に現れていると言われているが、干上がりの原因はそれだけではない。アムダリヤ川の周辺の砂漠の干拓に、多くの水を引くようになった事も、大きく関係していると思われる。 昔は、アムダリヤ川の水は、アラル海に注いでいたが、現在では、アラル海に注ぐ前に、干上がってしまっている。これは、あたかも、アメリカのコロラド川の水が、その途中の砂漠に出来た大きな歓楽街・ラスベガスの水の使用量が多すぎて、メキシコ湾に流れ込まなくなっていると言う話と繋がってくる。 ダムを造り、干拓事業を実行し、良かれと思ってやっている事が、想定外の結果を招いている。何事にも、程々にとか、バランス感覚とかの理性が求められる所以であろう。 さて、今朝は、トルクメニスタン入国に当たり、ビザの取得代として、英国人は101ドル、その他の国民は71ドル徴収された。 既に、リーダーには150ドル支払っているが、それは、ビザを申請するに当たっての必要条件である、「招待状」取得のための費用だそうだ。トルクメニスタンには、せいぜい6日しか滞在しないのだが、その手続きは、他の何処の国より煩雑である。 AM9:30、ウズベキスタン側のイミグレーションに到着。 AM10:00、簡単な、パスポートチェックで終了。 AM10:30、トルクメニスタン側のイミグレーションに到着。ロビーで待機していると、西遊旅行社の日本人団体客が入ってきた。年輩者が多く、平均年齢は、かなり高そうだ。 話をしてみると、9人グループの中に男性が1人だけいて、80歳だと言う。トルクメニスタンを中心に10日間のツアー。私たちのトラックバスを見て「テレビのドキュメンタリーで、このトラックバスを見ました。英語ができたら参加したいのだが」と言っておられた。 AM11:30、我々の1人ずつの面接が始まった。「薬は持っていますか?」「はい、持っています」。「見せて下さい」「トラックバスの中ですが」「では、その小さなバッグの中を見せて下さい」「はい、どうぞ」と、私の面接は簡単に終わった。 ところが、ジョアンナが此処でも引っかかっていた。何やら薬を机に広げて、面接官とやりとりしていたが、最終的には、全部廃棄させられていた。それは、常備薬の睡眠剤で、医者の処方箋もあったそうだが。ジョアンナは、「随分色々な国へ行ってきたが、こんな事は初めてです」と不満げに言っていた。 リーダーの、ニンカが出てきて、「追加の徴収があります」と言って、14ドルずつ集められた。ビザ発行に伴う手数料だそうな。結局、ビザ発行に掛かる料金は、150+71+14=235ドルになった。 隣国のウズベキスタンでは、ビザが不要だから、この手の費用は全く掛からなかった。ほんの5、6泊するだけなのにこの費用は高すぎると思う。中国よりも高く、もしかしたら世界一高いかもしれない。北朝鮮がこんなものだろうか? AM12:30、トルクメニスタンの入国審査が終わり出発。中国と同様、この国では、現地ガイドの同行がなければ、観光はできない。そのガイドは、ツアー会社が選択できずに、当てがわれる人間を、そのまま受け入れるしかないそうだ。 PM1:20、バスの中に闇の両替屋が乗り込んできて、両替を始めた。当然この両替屋は、現地ガイドの手引きで、来ていると思うべきであろう。公定レートは、1ドル=3.5マナットだが、此処では、1ドル=10マナットで両替できるという。 闇取引とは言え、ドルが3倍の価値になると言う、信じられない話である。中国に留学したとき、闇取引を紹介されたが、肯定レートとの差は、せいぜい10%位であったと思う。私は、20ドルを両替し、公定レートなら70マナットにしか成らない所を、200マナットを手に入れた。 この異常な闇取引には、政府高官が関わっていると考えるのは、考えすぎであろうか。つまり、政府高官は、自分が、ドルを欲しいために、マナットを地下で殆どタダで、幾らでも流す。当然違法だから、他の人間がやったら監獄行きだ。 私の推理を元監獄守衛のテリーに話したら、「いい処、突いているな。しかし、障子に耳ありだ。気を付けて話さないと」と言って笑っていた。私は、この稿(文章)を、トルクメニスタンを出航した船上で書いている。万一、ポメラを没収され、書いている内容を知られたら、まずいことになると心配してのことである。 町には、深緑の色が目に付く。女子学生の制服、屋根の色、国旗、公営バス等、あちこちにこの深い緑を目にすることになった。つまり、トルクメニスタンの基本的なカラーは、深緑色である。
PM1:50、昼食。ダンプリング・スープ(水餃子の入ったスープ)、チェリー・ジュース。15ナット。両方とも美味しかった。他に、手持ちのバナナとビスケットも食す。 私が、ニンカやジョノと同じテーブルに座っていると、そこに現地ガイドも来て座った。私が現地ガイドに、「この国の経済は安定していますか?」と聞くと、「安定している」と、ぶっきらぼうに答えた。 ガイドが居なくなってから、ニンカから「発言に気を付けた方が良いよ」と注意を受けた。確かに、そう言われて感じることは、現地ガイドの態度は、デカいし「俺がやってやる」と言う風情である。そして、我々の言動を監視している様な、雰囲気を感じるのである。 食事中、ブラックマーケットの話になった時、ジョノが「昔の話だが、ベネズェラで、ガソリンを満タンに入れたとき、その価格が、アイスクリーム1個の値段だったことがあるよ」と、笑いながら話してくれた。経済が不安定になると、とんでもない事が発生する1例であろう。 PM5:00、クフナ・ウルゲンチに到着。ここは、昔の都で、アムダリヤ川の流れが変わったために、都が現在のウズベキスタンのヒヴァに移った。その為に今は廃墟になっているが、観光資源ではある。 私は、珍しくこの時間に大便に行きたくなったので、用を足して戻ってくると、グループの仲間たちは、もう出発した後であった。私は彼らの後を追いかけずに、トラックバスに乗って、給油所へ同行し、出口で皆を待つことにした。 「全体像が掴めれば、個々の廃墟を見学するまでもないだろう」と言うのが、この時の私の考えである。出口で待っていると、今朝イミグレーションで遭遇した日本人団体客に再会した。同じ様なところを見学しているのだ。 此処(クフナ・ウルゲンチ)にある、有名な廃墟は: 1, トレベク・ハニム廟:14世紀に建設。
2, クトルグ・ティムール・ミナレット(写真:左) 3, スルタン・テケシュ廟(写真:右)
4,イル・アルスラン廟(写真:右端)
PM6:00、買い物休憩。コーラ、4マナット。 車窓の風景(クフナ・ウルゲンチ) PM6:30、キャンプ場に到着。日本人の団体客は、ホテルに宿泊すると言う。私の仕事は、トラックバス内のモップ掛け。その後、枯れ木を集めて、キャンプファイヤー。
PM7:30、夕食。マッシュポテトに、チキンソースを添えたもの。美味しく頂きました。 PM9:00、就寝。寒かったが、ミシェルが置いていったスリーピングバッグが、冬用だったので、その中に潜り、上から自分のスリーピングバッグを掛けて寝た。お陰様で、暖かく寝ることができた。 9月5日(水)ダルヴァザ AM5:30、起床。 AM6:00、朝食。シリアル、トースト。ジョノがスコップを持って、ブッシュの中へ入って行った。「何をしてきたの?」と聞くと「太い木を埋めてきた」と言う。なるほど、NO.2をしてきたのか。と合点が行った。西洋人の隠語で、NO.1は、小便で、NO.2は、大便である。 AM7:00、出発。相変わらずのバンピングだが、トラックバスは現代のラクダであると考えれば、悪いことばかりではない。ゆっくりだから遠くまで行ける。水も運べる。野宿もできる。 バンピングがひどいのは、トラックが想定していたより、客数が少なく、重量が少ないために、余計バンピングがひどくなっていると言う。そう言えば、ツアー客が10人から19人に増加したときは、幾らかバンピングが減少したような感じがした。 AM9:00、トイレ休憩。 我らのトラック・バス(カラクム砂漠) AM10:30、買い物休憩。ぽんぽん菓子、1マナット。メロン、7マナット。メロンは、路上で売っていたのだが、味見をしたら、非常に甘かったので、一個丸ごと買った。 甘いメロン(カラクム砂漠) AM12:30、トイレ休憩。ランチタイムなしで、カラクム砂漠をヒタ走っている。この砂漠の広さは35万km²(日本の面積は38万km²)で、トルクメニスタンの国土の70%を占めている。先ほど買ったメロンは、テリーも買ったので、二人でシェアーする事にした。つまり、今日はテリーのメロンを食べ、明日は、私のメロンを食べると言う風に。 PM3:00、キャンプ場に到着。テント張りの後、ポメラ。 PM5:30、夕食。スパイスの利いたカレーライス。肉は、骨付きの鶏だった。キャンプ場では、骨が付いていてもやむを得ないか。デザートに、スザンナが作った甘い菓子が出されたが、余った物が取り合いになるほど美味しかった。 PM7:00、「地獄の門」を見学に、マイクロバス2台に分乗して出発。10ドル。此処は、カラクム砂漠の中央、ダルヴァザ村付近にある。旧ソ連時代の1971年、この地で地質調査を行った際、落盤事故が起き、大きな穴の底から天然ガスが噴出した。 その時に有毒ガスの噴出を防ぐためにやむなく点火した炎が、その後40年以上の時を経た今も燃え続けている。直径60m、深さ20mのクレーターから、絶え間なく炎が上がっている。落盤事故の原因として、アムダリヤ川の地下水が枯渇したことが挙げられている。 地獄の門@(カラクム砂漠) 地獄の門A(カラクム砂漠) 此処でも、日本人の団体客と会う。彼らは、地獄の門近くに用意されたテントに宿泊すると言う。我々は、キャンプ場へ戻るために、マイクロバスに分乗して帰途へ。この帰り道で、我々が乗ったマイクロバスとは別の車が、砂にはまり脱出できなくなってしまった。 PM9:00、話では聞いていたが、砂漠では良くあることのようである。どのように脱出したのか、聞いていないが、彼らのマイクロバスも20分遅れで帰ってきた。 後から聞いた話では「我々の車が、彼らを迎えに行き、その車に乗り換えて帰ってきた。彼らの車は壊れて動かなくなってしまった」と言う。それほどのポンコツ車であったのだ。 PM9:30、就寝。 9月6日(木)アシュガバット AM6:00、起床。夕べは、少し傾斜面にテントを張っていた為、目が覚める度に、身体がずり落ちていた。何度も目が覚めてしまい、睡眠中は、僅かの傾斜でも、無視できないことを知ることになった。 AM7:00、朝食。トースト、メロン、卵、コーヒー。 AM8:00、出発。昨夜見た、「地獄の門」の姉妹を見に行く。一つは、小さなガスが燃えているクレーター。もう一つは水の溜まっているクレーター。クレーターの形は似ているが、その中が大分異なる。 ガスが燃えるクレーター(カラクム砂漠) 水が溜まるクレーター(カラクム砂漠) AM10:15、カラクム砂漠を縦断中。この2泊3日は、砂漠の中をヒタ走っている。お陰で、ラクダをあちこちで見かけることが出来た。今でも実用として活用されているのであろうか?
AM12:00、トイレ休憩。この辺りでは殆どが、トイレのないトイレ休憩である。 PM1:00、一本の川が見えると、いきなり3車線の町へ入ってきた。首都のアシュガバットに近くなったのだろう。 アシュガバット@(トルクメニスタン) PM2:00、ホテルに到着。Wi-Fiは有るが、インターネットは繋がらない。中国と同じか、それ以上の規制が掛かっている。受付で確認すると、「ヤフー、ラインは使えないが、グーグルは使えます」と言う。しかしそのグーグルも、結局機能しなかった。仕方なくポメラに向かう。 PM5:30、スーパーへ買い出しに。ジャム、パン、牛乳、スプーン、お菓子。56マナット。旧ソ連の雰囲気を最も強く抱えている国だと思う。情報を極端に制限し、旅のガイドブックでも、トルクメニスタンの記事は、極端に少ない。 とても、旅行者を歓迎している雰囲気は感じられない。ホテルの受付嬢や、スーパーの女店員も、笑ったら損する様な顔で接してくる。同じ中央アジアでも、こんなに違うのかと、驚くばかりである。 PM6:30、夕食。パン、ジャム、ピクルズ、牛乳。 PM7:00、ポメラタイム。 PM8:00、シャワータイム。 PM9:00、就寝。 9月7日(金)アシュガバット AM6:30、起床。テレビを付けてみる。30ほどのチャンネルがあり、CNNや、BBC等、海外放送も自由に見ることが出来る。 AM8:00、朝食。洋食スタイルのバイキング。人参、ポテト、キノコ、豆等の入った、ベジタブル・スープが美味しかった。 AM10:00、今日は、外出する気にならない。見るべき所がない事が第一。自由に歩けない町では、つまらない等がその理由である。その代わりに、テレビを見て過ごしている。どんなチャンネルがあるのかに、関心があったのだが、こちらは、制限がないかのように放送されている。しかし、注意してみると編集された映像が繰り返し流されていた。 この部屋には珍しく、バスタブが付いたバスルームがある。この際、お湯を張って入ってみることに。自宅のようにタップリと言うわけには行かないが、それでも、8部通りは満足できる湯量であった。2ヶ月ぶりの湯船は、何はともあれ、気持ちの良いものであった。 AM12:00、テリーが、シェアーしているメロンを持ってきてくれた。とても一人では食べきれない大きさなので、助かっている。彼は、2時から散歩に出かけると言うから、同行することにした。 PM1:00、昼食。パン、メロン、牛乳、ピクルズ。いずれも買い置きの物である。 PM2:00、テリーと散策に。テリーは、昨日の夕方、既に粗方歩いていた。大統領官邸近くでビデオを撮っていたら、ポリスが来て、削除させられたと言う。そのポリスが今日も立っていた。テリーは笑顔で、手を挙げて挨拶を交わしていた。 このトルクメニスタンの首都、アシュガバットの町には、至る所にポリスが立っていて、我々を監視している。そして、電柱を見上げると、監視カメラが3方向に付けられていて、360度を監視している。 町を歩く女性の装いを鑑賞できることは、我々旅行者の楽しみである。トルクメニスタンの女性の、標準的な服装にも基本的なデザインがある。それは、ベースの色は問わないが、モノトーンで、踵が隠れるくらいのワンピースである。 そこに、首から鳩尾(ミゾオチ)にかけて、刺繍が施されている。この刺繍の外形は殆ど同じデザインだが、その中の刺繍の色、形は、それぞれ個性がある。 また、女子学生の制服は、深緑である事は既に書いたが、女子大生の制服は、赤色である。しかし、この赤色には、若干の幅があるらしく、全く同色ではない。 女子高生の制服(トルクメニスタン) 女子大生の制服(トルクメニスタン) 男子小学生の制服 我々は市場に寄った。町を歩いている人の数も少ないと思うが、この市場でも、売り子の数に対して、客の数が少ないと思う。私は、どうしても果物に目が行ってしまう。先日、スザンナに独り占めされて食べ損なった桃と、リンゴを購入。13マナット。 市場(アシュガバット) 次に土産店に寄ったら、二人の孫娘にと考えていた、ラクダのミニチュアがあったので、手作りの可愛い物を、大小2頭買った。大小だと喧嘩になるかな?値段は秘密。 大通りへ出ると、議事堂前で、大がかりな閲兵式を挙行中であった。我々二人は、それを見る為に近くまで行こうとすると、近くに立っている警官に制止された。ふつうの国なら、一つの観光行事として、観光客は歓迎されるのであるが、この国では全く逆の対応である。都心を歩いている人の数も少なく、その静寂さは異様である。 閑散とした首都・アシュガバット@ 閑散とした首都・アシュガバットA 閑散とした首都・アシュガバットB PM4:30、ホテルに帰着。インターネットの状況をチェックするが、全く好転していない。テレビのニュースで、北海道(胆振東部)で大きな地震があったと報じられていたらしいが、確認できない。 ロビーで、セブギを囲んで話がされていた。セブギが泣いている。何でもセブギは、今夜、このグループから離れると言う。経緯を確認すると「セブギがリーダーと、ドライバーに、冷遇されていると、本社のカレンにメールをした。 その結果、セブギは嘘つきだと言うことになり、更に立場が悪くなった。そして、このグループに居辛くなった」と言うことらしい。内部告発をした結果、返り討ちに逢ってしまったのだ。日本でも良くあるケースである。 そう言えば、8月27日頃、ミシェルが彼氏の待つタイに飛ぶ前日に、二人で相談しながら、カレン宛にメールを書いていた事は、それと無く耳にしていた。私は、彼女たちの気持ちは分かるが、悪い結果にならなければよいが、と心配であった。私の悪い予想は当たってしまったようだ。 何がきっかけで、こんな事態に陥ってしまったのだろうか?私には、思い当たることがあった。ある時(8月1日)、皆が朝食の後片づけをしている時、セブギとフーゴの2人が、さっさと観光に出かけてしまった事がある。 それを見ていた、ニンカとジョノは、「二人は、協力的ではない。後でこの埋め合わせは、しっかりとやってもらおう」等の話をヒソヒソ語っていたことがある。その後、男性のフーゴは旨く切り抜けたが、若い女性のセブギは、この後、やさぐれ女の餌食になって冷遇され、だんだん亀裂が大きくなって行ったのかも知れない。 PM7:00、セブギとのお別れの会食に誘われた。行ってみると、ジョノとニンカ以外は、全員参加であった。セブギの気持ちは吹っ切れていて、もう明るく談笑していた。 セブギとのお別れの会食(アシュガバット) セブギはトルコ人だから、最初からトルコの観光は予定していなかった。しかし、それにしても予定より3週間も前にリタイヤすることは大きな損失に違いない。彼女は、幾ばくかの返金をしてもらえるのかと、ニンカに確認したが、断られたそうだ。 ここトルクメニスタンでもトルコ語が通用するらしく、注文を取るのに、彼女が通訳をしていた。私は、サラダと、羊の串焼きと、コーラを注文した。15ドル。 PM9:00、ホテルに帰着。シャワー。ポメラ。 PM10:00、就寝。明日は「5時半、朝食。6時の出発」と早い。 9月8日(土)トルクメンバシュ AM4:30、起床。 AM5:10、朝食。昨日美味しく頂いた、ベジタブル・スープが今朝はない。同席のジョンは、ゆで卵を3個も持ってきた。朝から随分食欲が有るものだと感心していると、その3個を紙に包んでバッグの中に仕舞った。おやつか昼食の足しにするのであろう。 妻のスザンナにも、驚いたが、夫のジョンもなかなかの者だ。妻も妻なら夫も夫である。こんな事に感心しているようでは、まだ一人前の旅行者とは言えないかな? AM6:00、出発。既にホテルの門の所に、ポリスが立って監視している。今日はツアーグループから、また3人が減って、10人になった。一人は、テリー。ウズベキスタンのビザに続いて、アゼルバイジャンのビザが取得できていないと言う。 2人目は、セブギ。彼女のことは既に書いた。3人目は、スコットと急速に接近していたアビである。彼女は、予定通りの帰国だそうだ。 AM8:00、トイレ休憩。コベット・ダグ山脈を左に見ながら、トラックバスは一路、カスピ海を渡るトルクメンバシの港を目指している。コベット・ダグ山脈の向こう側は、イランである。 左はコベット・ダグ山脈(トルクメニスタン) AM10:00、トイレ休憩。走っている車を見ると、トヨタが目に付く。その中でも、カムリが多い。私の車と同じ車種であることに、親近感が沸く。その他では、旧ソ連製の、箱型の物も目に付く。 AM12:15、トラックバスは、カラクム砂漠の中を走っている。車窓からラクダの姿を、次々と見かけるが、瞬間的に通り過ぎるので、カメラに収めることは難しい。1頭、2頭、3頭、時には10頭ほどが、纏まって草を食んでいる。しかし、ラクダが何かを運んでいる姿は、まだ目にしていない。 カラクム砂漠A(トルクメニスタン) ジョアンナは、「マークと結婚する前、インド北部のネパールに前の夫と住んでいた」と言う。つまり、彼女たちは共に再婚同士なのだ。ちょっとした話から、その人の人生が垣間見えて面白い。「ネパールの言葉は、文法や発音が日本語に近く、日本語を上手に話す人が多い」と言う。 PM2:00、昼食。ベジタブル・スープ、パン。15マナット。スープは、ロシアのボルシチに似ていて美味しかった。そして、パンは、焼きたてらしく、まだほんのり温もりが残っていて、こちらも美味しかった。やはり、パンは焼きたてに限る。15マナットを支払うと、丁度私の財布からトルクメニスタンの紙幣が無くなった。 PM5:00、カスピ海に臨むトルクメンバシの港に到着。大きな港である。我々の船は、明日の昼頃の出航であると知らされた。今夜はこの港の待合室で、寝袋を用意して寝ることに。 トルクメンバシの港A(トルクメニスタン) 数年前に、アルバニアのティラナから、イタリアのバーリに渡る時、何も知らされないまま、今か今かと、8時間〜10時間も待たされた時のことを思えば、気分は楽である。 PM6:00、港の埠頭で夕食。サンドウィッチ。ニンカがパン、ソーセージ、チーズ等を用意していた。私はそれに、牛乳、ピクルズ、リンゴを食した。 PM7:00、待合室の椅子の上に、寝袋を用意し、ポメラを叩く。 PM8:00、やることも無いので就寝。 9月9日(日)トルクメンバシ AM6:30、港の待合室で起床。椅子は狭いし、沢山の蠅が飛び交っていて、安眠を妨げた。 AM7:00、朝食。売店で、菓子パンとコーヒーを購入。2ドル。 AM8:30、特にすることもなく、マーク、ジョアンナ夫妻とロビーで懇談。 AM10:00、ブランチ。キャメロンが用意したシリアルを少々食べる。兎に角、する事がないので、待機しているだけ。待つのも旅行の内だ。昨日のニンカの話では、今日の昼頃の出航予定であると言っていたが。 旅行ガイドブックのコーカサス編(アゼルバイジャン、ジョージア、アルメニア)を読んで過ごす。 AM12:00、予定の時間になっても、何の動きもない。ガイドブックを読み続ける。 PM3:00、ガイドブックは読み終わったが、未だに何の動きもない。 ひたすら待機A(トルクメンバシの港) PM5:00、待合室にいた乗客が、並びだしたので、我々もその後ろに並んだ。しかし、列は全く前に進まない。我々は再び列を解いて、椅子に戻った。 PM6:30、やっと列が動き出した。それも、極端にゆっくりと。ポリスは邪魔になるほど立っているのに、パスポートをチェックする係りは1人である。「効率」と言う概念は、まだこの国には存在していないようだ。 報道の自由度の世界ランキングによると、ワーストが北朝鮮で、トルクメニスタンは、下から3番目だという。「中央アジアの北朝鮮」と言われる所以である。因みに下から2番目の国は、アフリカのエリトリアだと聞いた。 我々はシルクロードを踏破する事が目的だから、この国を通過することに意義があるが、日本から観光に来ている団体さんにとって、情報が公開されていないこの国を訪問する事に、何ほどの意味があるのだろうかと、首を傾げて仕舞う。 日本の1.3倍の面積を有しながら、(もっとも大部分は砂漠であるが)観光資源をほとんど持たないと言うことは如何なものであろうか。本当にないのか、公開してないだけなのか、今後の推移を見守るしかない。 PM7:00、やっと乗船だ。ここまで来るのに、何度パスポートのチェックと、荷物のチェックをされたであろうか?港内で隣の部屋に行く度にチェックだ。同じ事を何度も何度も。 最後のパスポートチェックの時、役人が「トルクメニスタンの旅は楽しめましたか?」と聞いてきた。私は「とても楽しめました。有り難う」と言って、そこを後にした。こう言うのを、ブラックジョークと言うのであろうか? 乗船後、最初に確認したのは、夕食と朝食の時間である。受付の男性は「夕食は午後10時、朝食は午前9時である」と明確に言う。これは、複数の人がいる前で言ったことだから聞き間違えることはない。 PM8:00、船内では狭いながらも個室を与えられ、いつもの通りフーゴと二人部屋である。部屋にはシャワー付きトイレがある。しかし、シャワーとして使える部分が極端に狭く、その部分に立ったら、回転も出来なければ、屈むことも出来ない。 直立したまま、上からシャワーを掛けるだけである。私は痩せているから何とかなったが、大きなマークや、キャメロンはどうしたであろうか。そう言えばあのニキータのことも気になる。 PM9:00、相部屋のフーゴが、一足先に夕食の確認に行き、戻ってきて言うには「今夜の夕食は出ないそうだ」と言って、カップラーメンを持っている。私は、何かの間違いだろうと思い、受付に確認に行った。 受付の男性は「夕食は出ますよ。そこの突き当たりの部屋に行って下さい」と言う。「やっぱり出るのだ」と思って、その部屋に行ってみると、ジョンやスザンナも、フーゴと同じテーブルで、カップラーメンの用意をしている。 そして、ジョンが「今夜の夕食は無いそうだ」と言う。私は、奥にある厨房へ行って、コックに確認した。コックは、「今夜の夕食は、ありません」と言う。そんなバカなことがあるのか? ほんの20m程しか離れていない、受付と厨房のスタッフの言うことが全く反対である。私とコックとのやり取りを聞いていたイギリス人男性が、「夕食は出ないのだ。それがトルクメニスタンなのだよ。カップラーメンでよければあるよ」と言って、プラスチックの袋から取り出して私にくれた。 私も、カップラーメンなら、非常食用に持っているが、ことの成り行き上、その男性からカップラーメンを有り難く頂くことにした。 厨房にそのカップラーメンを持っていくと、「やっとこの男も納得したか」という顔をして、どんぶりにお湯を注いでくれた。楽しみにしていたディナーがカップラーメンになった瞬間である。トルクメニスタンで最後の出来事は、この国を象徴する事件であったかも知れない。 PM10:00、就寝。 9月10日(月)カスピ海 AM8:00、起床。久しぶりにゆっくり目覚める。しかし睡眠中、熟睡していたわけではない。船のエンジンの振動音と揺れとで、何度も目が覚めてはいる。 AM9:00、朝食。乗客100人余りが一斉に食堂に並ぶ。仕事の「効率」を考えない人は、どこまでも考えないものらしい。100人も並んでいるのに、一人一人から、乗船時に渡された、部屋番号の書かれたメモを確認し、ノートに記録している。 普通なら、メモを確認するだけ、またはメモを回収するだけ、または、なにもチェックしないで、乗船客を食堂に通すであろう。この効率の良さ?!は、最初の人が食べ終わったのに、後から来た人はまだ並んでいると言う光景を生み出していた。 この効率の悪さが、旧ソ連を崩壊させた主因なのだが、この国は、まだその事に気付いていないらしい。 AM10:00、「この船は、結局何時に出航したのか」と私が話題にした時、「今朝の3時」と言うのが多数の結論であった。キャメロンが、スマホのGPSで、現在の船の位置を確認すると、丁度カスピ海の真ん中に来ている事が分かった。 7時間掛けて半分の道のりだから、アゼルバイジャンのバクーに到着するのは、あと7時間後の午後5時頃になるであろう。トルクメニスタン側のトルクメンバシとバクー間は、おおよそ260kmだから、時速20kmのスピードで航行している事になる。かなりユックリであり、お陰で揺れは少ない。 此処で、大型船とすれ違いが見られた。この線上が航路になっているのであろう。目視では近くを航行しているように見えるが、カメラ写りが良くないのは、相互の距離がかなりあると言うことか? 大型船とすれ違い(カスピ海) カスピ海の船上でA AM11:00、船室に戻って、ポメラタイム。 PM2:30、バクーに近づいてくると、海底油田の櫓が目に付くようになる。180度の視野に10カ所ほどの櫓が見える。バクーは油田で発展してきたと言われているが、一説では、数年の内にドバイを追い抜く勢いだとか。船室に戻るとき、大部屋の小さな絨毯の上で、お祈りをしている熱心なムスリムを見かけた。 海底油田の櫓(カスピ海) PM3:00、バクーの町が見えるところまで来て、フェリーは全く動かなくなった。このまま、入港の許可が出るまで待機するしかないのだろうか。 バクー入港を待機(カスピ海) 何もすることのない私は、録音してきた音楽を聴き始めた。フランク永井、テレサ・テン、アルゼンチン・ハープ演奏者、ディビッド・オガルデによる、ハープの演奏。全部聞いても3時間半ぐらいだ。 PM5:30、ディナーが出ることになった。ディナーとは言っても、ライスに大きめのミートボールを乗せたもの。しかし、出ないよりは増しだ。食後、私とジョアンナは、そのまま食堂で懇談。ジョアンナが「厨房のあそこに見える美味しそうなスイカは、明日の朝食用かしら」とか言っている。 PM7:00、賄い婦が、大きな皿にカットしたトマトと、大きめに切ったスイカを乗せて、近くのテーブルに置いた。その後で、食パンを5、6枚、皿に載せて運んできた。誰が食べるのかなと見ていると、なんとその賄い婦の食事であった。我々の食事より余程質量共に上等であった。3、4人分はあろうかと思うような量を、事も無げに口に運んでいく。その食べっぷりは見事と言うしかない。 トルクメニスタンの婦人の服装は、胸に縦長の刺繍があるワンピースが標準である。しかし、よく見るとそれぞれに特徴がある。裾が長くて、靴を履いていても裾が床に着いているもの。体型が締まっている人は体にぴったりしたワンピースだが、肉付きの良い婦人は、それが目立たないように、ゆったりした服装を着ている。 大勢の中に、一人だけ裾の方に10cm程のスリットが入り、そこに、飾り紐が下がっているワンピースを着ている人がいた。注意して見ないと気が付かないで終わってしまうが、目立たないところのお洒落は、見ていて気持ちの良いものである。 PM9:00、何の情報もないまま、ベッドで横になる。 9月11日(火)バクー AM1:00、受付にいた男が、火事でも発生したかと思うような大声で、「みんな起きろ!鍵を持ってパスポートを受け取るんだ」と言うことを叫んでいる。何事かと起きて、部屋のドアを開けてみると、その男が、各部屋のドアを叩きながら叫んでいた。私は、もう外に出る用意は出来ていたので、荷物を抱えて、急いで階段下の受付へ走った。 受付の周りには、私よりも早く来た人で殆ど埋まっていた。しかし、肝心の受付の担当者は誰もいない。これでは、パスポートを返してもらえない。担当者が現れるまで、このまま待機するしかない。 船内の受付カウンター(カスピ海) 我々のパスポートが返されたのは、1時間も経った頃だろうか。これなら何も、大声で叫んで起こさなくても良かったのではないか!?船内放送はトルクメニスタン語だけ、それも1回で終わりだから、我々には何を言っているのかさっぱり分からない。 パスポートが返されても、船外に出してくれない。やっと船外に出たのは、更に30分後だ。そして、更に船外でも待機すること1時間。要するに、アゼルバイジャンの二人の入国審査官が、100人以上の乗客を、一人ずつチェックしているのだ。 未明の下船(バクー港) 全てが終了して、港外へ出たのは、午前4時であった。それから運転手のジョノが出てくるのを待つこと更に1時間。それでもジョノが出てこなかったので、我々は、タクシーに分乗してユースホステルへ。 AM5:00、バクーのユースホステルに、チェックイン。久しぶりに10人部屋のドーム。24時間対応が原則ではあるが、朝5時の、それも12人の受け入れだから、ユースホステルのお姉さんも大変だ。ベッドを割り振ったり、タオルを用意したり。こんな時間に宿泊する方も必死ではあるが。 結局、カスピ海の渡航にどれだけの時間を要したのであろうか?ここで、整理してみよう。 9月8日、PM5:00〜9月9日、PM7:00 :乗船まで、26時間。 9月9日、PM7:00〜9月10日、AM3:00 :出港まで、8時間。 9月10日、AM3:00〜9月10日、PM3:00 :渡航時間、12時間。 9月10日、PM3:00〜9月11日、AM1:00 :船上待機、10時間。 9月11日、AM1:00〜9月11日、AM4:00 :港外まで、3時間。 合計59時間、足掛け4日間を要したことになる。時間と日にちの感覚が朦朧としてくる。トルクメニスタンバシの港に着いたときの話では、比較的スムーズに渡航できるのかなと期待をしていたが、終わってみると、「ヤッパリ」と言う気持ちである。「カスピ海の渡航には、3、4日掛かることがしばしばあります」と、聞かされてはいたからだ。 AM5:30、就寝。兎に角、ホステルのベッドで横になる。 AM8:00(1時間の時差があるため、現地時間は、AM7:00)、起床。どんなに睡眠時間が少なくとも、朝になると目が覚めるものだ。勿論、スッキリした気分ではないが。 朝食。食パンにバター、ジャム、チーズを乗せて。食後、ポメラ。 AM11:30、外出。まず銀行で両替。40ドル=67.88マナット。 「歩き方」には、1マナット=130円と書いてあったのに、今日はその半分の65円前後であることに戸惑いを感じた。注意して読むと、「歩き方」の情報は、2013年と5年も前の情報であった。 まず海の方へ向かう。きれいに整備・清掃され、気持ちの良い公園風の海岸である。カスピ海を渡ってきたこちら側は、中央アジアではなく、ヨーロッパなのだと強く感じた。最初のマナットは、コーラを買うのに使った。1マナット。65円ぐらいか?中央アジアでは、20〜30円ぐらいであったから、物価は大分高くなっている感じだ。 公園風の海岸A(バクー) 公園風の海岸B(バクー) 公園風の海岸C(バクー) 海岸を歩いていると、アダムとキャメロン夫婦の一行に出会った。キャメロンの妻・アンドレアは、トルクメニスタンに入国できず、一足先に飛行機でこちらのバクーに来ていた。二人は今朝が、1週間ぶりのご対面である。 私は「これから、旧市街を歩きたいのだが」と言うと、アンドレアは「それなら、こちらの方ですよ」と、私が予想していた方と逆の方を指さす。私は合点が行かず、何度も確認したが、アンドレアも主張を変えない。後で分かったことは、この町が想像していたほど大きくなかったことである。私が、これから行こうとしていた旧市街は、もう通り過ぎていたのだ。私は、この町の高台を目指し、城壁に囲まれた旧市街を散策した。 旧市街A(バクー) 旧市街B(バクー) そこでの主な建造物は: 1,シルヴァン・シャフ・ハーン宮殿 外観 中庭 2、乙女の望楼 である。その他の建物は、レストランや、土産物屋になっていた。 路上で、ジュースの絞り立てを販売していたので1杯所望した。それは、ザクロを主体としたもので、新鮮ではあったが、少し酸味が強かった。5マナット。 PM2:30、ホステルの近くに戻ってきて、ファストフード店で、昼食。スープとハンバーガーを注文したが、スープは塩が強すぎて飲めず、返品した。ボーイは不満そうであったが、会計係は快く受け入れてくれた。5マナット。 PM3:00、ミニスーパーで買い物。キュウリのピクルズ、大きめのブドウ。5マナット。ピクルズは期待通りの美味しさであったが、ブドウの方は、甘みが少なかった。 PM3:30、ユースホステルに帰着。受付嬢に洗濯物を依頼する。3マナット。 PM4:30、ブドウを食しながらイラン人の男性(70歳)と懇談。ホメイニ革命のこと。私の3女がバンクーバーで、イラン人の家庭にホームステイしていたこと。彼は、30歳になっていなかった妻を亡くしたこと。それは、川でおぼれ掛かった息子を助けに入って、自らが帰らぬ人に成ってしまったと言う。 それ以来、彼は独身である。彼は、絵を描く事が好きで、その作品を見せてくれたが、とても素人とは思えない、深く味わいのある絵であった。ネットでも見られますかと聞いたら、ネットにはアップしていないと言う。一枚ぐらい欲しくなる絵であった。 PM6:00、ポメラを開いてびっくり。今朝書いたところが消えている!今までそんなことは無かったので、パニクってしまった。どこかに残ってはいないかと、ファイルの中を探しまくったが、希望は叶えられなかった。仕方なく、今朝書いたことを思い出しながら改めて書いた。 しかし、最初に書く時と、気分に微妙な違いがある。つまり、気分が乗らないのである。最初に書く時は、どんな文章になっていくのか、どんな表現になるのか、書いていて、それなりの緊張感と楽しみがある。しかし、2度目はそれが無いのである。 PM7:00、日記を家族に送信してみたが、シグナルが弱いせいか、送信に失敗。 PM8:00、シャワータイム。 PM10:00、就寝。 9月12日(水)バクー AM6:00、起床。 AM7:00、日記の家族への送信成功。皆が楽しみに待っていてくれるから、送れないと気持ちがスッキリしない。通信状況に微妙な変化があるのであろうが、良く分からない。 AM8:00、イラン人男性と、互いの持ち物を持ち寄って朝食。彼は、今はアメリカに住んでいるようだが、話の好きな爺さんである。 AM9:00、ホステルの朝食。私の朝食は、もう済んでいるので、食べなくても良いのだが、皆が集まってくるし、パン1切れを頂くことにする。昨日と同じ、バター、ジャム、チーズが用意されていた。 AM9:30、ポメラタイム。 イラン人男性と(バクー) AM11:00、買い物へ。今日のキャンプに備えて、非常食用に、パンと水、それにリンゴを購入。2マナット。 コンビニのお兄さんが、私が胸のポケットに刺していたボールペンを欲しがって困った。予備があればあげても良いのだが、生憎、予備の持ち合わせが無く、このボールペンは非常に大事なものだからと言って、返してもらった。 AM11:30、そろそろ出発の時間である。「皆パスポートは持っているかな?」と確認し合っていると、フーゴが「私のパスポートが無いが、誰か知らないか?」と言う。誰も心当たりはないようである。 すると私に向かって「あんたが私のパスポートを持っていることはないだろうね。ドイツのパスポートも赤いからさ」と、いつもの、とても年輩者に接する態度とは思えない上から目線で詰問してきた。 私は自分のバッグから、日本のパスポートを取り出して見せた。それで私が持っていないことは彼も認めたのだが、一瞬たりとも私に疑いを持ったことは許し難い行為である。 出発の時間は迫るし、パスポートは見つからないし、殆どパニック状況のフーゴは、何を思ったのか、自分のバッグをまさぐりだした。すると見よ!そこにあるではないか!! 1度も自分のバッグを見ることなく、「無い無い、自分のパスポートだけが無い」と言って、騒いでいたのである。人の思い込みもここまで来ると、呆れるしかない。 AM12:00、出発。バクー近郊は油田の掘削櫓と、パイプラインで溢れている。昔、アメリカのテキサスの油田を、映画で見たときの様子が蘇ってきた。 油田の掘削櫓(バクー) PM1:30、コブスタン博物館へ。5マナット。此処の岩山には、古代人が描いた数千の岩絵が残っている。その岩絵を見学する前に、それらにまつわる、歴史や考古学資料を展示してあるのが、この博物館である。私が博物館の見学を終えて、外へ出てきたら、丁度日本人の団体客10人ほどが、バスで到着したところであった。 コブスタン博物館 コブスタン岩絵群の見学へ コブスタン岩絵群 私たちはこの後、岩絵の見学に向かった。数千の岩絵を見ることは殆どエンドレスである。私にとっては、消えかかった岩絵よりも、切り立った崖と洞窟、大きな岩々が入り組んだ、複雑な地形を見ることの方が面白かった。 PM3:30、コブスタン岩絵群から10kmほど離れたところに、泥が吹き出す「泥火山」と呼ばれる噴火口を見ることが出来る。博物館の映像では、迫力に満ちた画面であったので、かなり期待していたのだが。 実際に行ってみると、その吹き出し口は、イソギンチャクを思わせるほどに小さく、やがて、吹き出しも終わりを迎えそうに、勢いがなかった。確かに昔は、映像通りの「泥火山」であったのであろう。ちなみに、吹き出してくる泥に触れてみたが、熱は感じなかった。 泥火山(ゴブスタン) PM5:00、今夜は此処でキャンプである。強い風が吹き抜ける中、テントを張る。自前のペグは、玩具のようで役に立たないので、ジョノがトラックにあった予備のペグを貸してくれた。 キャンプ(ゴブスタン) PM6:00、夕食。今日のメニューは、ツナ・パスタ。マグロの缶詰を使ったソースでスパゲティを和えたもの。お味はグッドでした。が、風が吹き抜ける中での食事は、身体が冷えて興を削がれた。 PM7:00、外では懇談が続いているが、私はテントの中で、ヘッドライトを点けて、ポメラタイム。こんなテントでも、風を防いでくれるので、外で風に晒されているより、余程、居心地が宜しい。 PM8:00、ポメラ終了。就寝。 9月13日(木)コブスタン 昨夜寝るときから、胃が痛みだした。これは下痢の兆候である。冷えたのか、スパゲッティが硬くて、消化できなかったのか?そんな所であろうと思いながら寝ていた。 AM1:00、小便に起きる。 AM3:00、大便を催して起きる。下痢の兆候あり。 AM4:30、と思って、寝袋を仕舞い、マットを仕舞っていても、誰も起きてこない。腕時計を見ると、まだ4時前である!アゼルバイジャンに入って最初のキャンプだったので、目覚まし時計の時差を修正していなかったことに気が付いた。一通り失敗しないと気が付かないこの頃である。 AM5:00、食欲はないが、紅茶でも飲んで気分を整えようと考えて、朝食の担当者であるマークの所へ行った。トラックバスに自分の荷物を運ぼうとしたその時、目眩がして、トラックバスの階段に座り込んでしまった。 心配したマークが、ビニールを敷いて寝かせてくれた。妻のジョアンナも、酸素吸入器を私の口元に当てがった。私の症状は、腹痛から来た下痢だと思っていたが、どうやら、過呼吸症候群であるようだ。 気が遠くなり、汗がびっしょり出てきた。ここまで来ると、後は時間の経過とともに、気分は快方に向かうのであるが、様子を知らない人たちが慌てている。 ニンカは責任者という立場上「今日は、医者に行って来なさい」といって聞かない。「すぐに回復しますから、予定通り次の所へ行きます」と言う私の決意に押されて、病院行きは諦めたようである。 AM6:00、出発。何も食べていないから、力は出ないが、トラックバスに座っていることは出きる。一部を除いて比較的良い道を、それなりのスピードで走っている。車窓からは、砂漠ではないが、耕作には出来ない荒れた土地が続いている。 AM8:00、トイレ休憩。下痢は止まったようだ。 AM12:30、シェキのホステルへ到着。ここは、昔シルクロードのキャラバン隊の宿場町で栄えた町であった。その名残の建物(キャラバンサライ)や、王の館があるが、今日の体調では見学は諦めよう。 私はニンカの責任を軽くするために、近くの医者へ。特段の異常はなく、薬を処方されてオシマイ。医者の救急患者の診断は無料だが、薬代が3種類で24マナット。この薬を飲む気はない。 今晩の夕食代にと考えていた残金が、スッカリ無くなり、銀行へ両替に行くことになった。20ドル=33.94マナット。帰りに、コーラとバナナを購入。1.5マナット。やっと少し口に入るものを手に入れた。 PM3:00、シャワー。ポメラタイム。 PM4:30、ポメラ、終了。バナナ2本を、おそるおそる食べる。いくらか元気が出てきたように思う。結局、この後は、外出せず、ベッドで横になっていた。 PM8:00、就寝。とは言っても、ずっと寝ていたので、寝付かれない。部屋が寒くなってきたので、空調機を見ると、17度と表示されている。これでは寒いわけだ。私は、25度位にしたいが、それでは西洋人は納得しないだろうから、遠慮して、20度に引き上げた。 すると、寝ていたフゴーが命令調で「俺は暑いから17度に下げろ」と言う。私は「私は寒いよ!」と、お互いに譲らない。こちらはまだ体調が良くないのに、少しは考慮してくれても良いじゃないか、と言う気持ちもあるので、20度のままベッドに入った。 しばらくして、マーク夫妻が外出から戻ってきた。部屋が冷えているものだから、心配したジョアンナが、何処からかタオルケットを持ってきて、私の上に掛けてくれた。お陰で私は気持ち良く寝ることが出来た。 それにしても、ジョアンナとフゴーの、この対応の差は何なのかと思う。そして更に、その後、エアコンのリモコンの音がしたので、またフゴーが温度を下げたのかな、と思いながらも寝てしまった。 ところが、翌朝目が覚めてエアコンの表示を見ると24度になっているではないか。最後に帰ってきた2人の男性のうちの1人が、変えたに違いないのだが、西洋人でも、私と同じような寒がりがいると言うことが分かった。 しかしながら、躊躇無く自分の好みの温度に変更すると言う心境は?彼らには「遠慮する」と言う言葉は無いようだ。17度を主張していたフゴーが、目が覚めた時には24度になっていたのだが、その時の気持ちを、本人に聞いてみたいものだ。 私に抗議してこないと言うのは、誰か他の人が変えたことが分かっているのであろう。相手によって難癖を付けるのか?この卑怯もの! |